2013年01月14日
今と昔?
今と昔について
今を生きている私にとって、
現在「足りているもの」と「足りないもの」を
意識することは難しい気がします。
「昔は・・・」といっても
考える角度によって
今と比較になるかは変わってきます。
そんなとき
共感覚研究の第一人者として知られる神経科医師
リチャード・E・シトーウィックさんの著書を読んでいて
「今と昔」の比較として、ビビッとくる文章がありました。
「テクノロジー社会は人間がつくりあげたものだが、
人間の精神が対処できないほど急速に変化して
私たちの人間性を失わせてしまった。
産業革命の時代までは、生活のテンポは許容範囲にあり、
各世代の生活様式もかなり一定していた。
だから個人は連続感をもって成長でき、
それがしばしば豊かな精神生活の基本となった。(略)
しかし現代は、テクノロジーが生活条件をあまりに急速に
変化させてしまうので、ある状態にようやく慣れたと思ったら
もう次がきてしまう。
これが不安と置き換えの原因になる。
どんどん変わる世界のなかで、安定性と精神的な深さを
発達させるのは不可能だ。
機械は人間の中核をなすものを奪うことによって、
私たちが真に生きる深いところから私たちを連れ出して、
皮相な生活のなかに捨て去るのだと私は思う。」
う~ん、意味深いなあと感じました。
こういう意識を持っているだけで
自分の行動の基準も変わってくる気がします。
でもまだまだ「豊かな精神生活」や「真に深いところを生きる」
ことは可能だと思っています。
確かに社会変化の速さを感じます。
毎日が忙しくすぎていくのかもしれません。
その毎日の中で少しでも
静かで落ち着いた時間を持てたら・・・
お仕事を沢山している方々のお話を聞いていると、
静かで落ち着いた時間を持つことで
多くの「ひらめき」があるようです。
ある方は、
「自分の欲を忘れて、心と向き合っているとアイディアが
湧いてくる。」
とおっしゃっていました。
頭で考え過ぎると、逆に不安や焦りが出てくることが
あると思います。
自然体でいる時間をもつ習慣が
「豊かな精神生活」や「真に深いところを生きる」ことに
繋がるのかもしれません。
今を生きている私にとって、
現在「足りているもの」と「足りないもの」を
意識することは難しい気がします。
「昔は・・・」といっても
考える角度によって
今と比較になるかは変わってきます。
そんなとき
共感覚研究の第一人者として知られる神経科医師
リチャード・E・シトーウィックさんの著書を読んでいて
「今と昔」の比較として、ビビッとくる文章がありました。
「テクノロジー社会は人間がつくりあげたものだが、
人間の精神が対処できないほど急速に変化して
私たちの人間性を失わせてしまった。
産業革命の時代までは、生活のテンポは許容範囲にあり、
各世代の生活様式もかなり一定していた。
だから個人は連続感をもって成長でき、
それがしばしば豊かな精神生活の基本となった。(略)
しかし現代は、テクノロジーが生活条件をあまりに急速に
変化させてしまうので、ある状態にようやく慣れたと思ったら
もう次がきてしまう。
これが不安と置き換えの原因になる。
どんどん変わる世界のなかで、安定性と精神的な深さを
発達させるのは不可能だ。
機械は人間の中核をなすものを奪うことによって、
私たちが真に生きる深いところから私たちを連れ出して、
皮相な生活のなかに捨て去るのだと私は思う。」
う~ん、意味深いなあと感じました。
こういう意識を持っているだけで
自分の行動の基準も変わってくる気がします。
でもまだまだ「豊かな精神生活」や「真に深いところを生きる」
ことは可能だと思っています。
確かに社会変化の速さを感じます。
毎日が忙しくすぎていくのかもしれません。
その毎日の中で少しでも
静かで落ち着いた時間を持てたら・・・
お仕事を沢山している方々のお話を聞いていると、
静かで落ち着いた時間を持つことで
多くの「ひらめき」があるようです。
ある方は、
「自分の欲を忘れて、心と向き合っているとアイディアが
湧いてくる。」
とおっしゃっていました。
頭で考え過ぎると、逆に不安や焦りが出てくることが
あると思います。
自然体でいる時間をもつ習慣が
「豊かな精神生活」や「真に深いところを生きる」ことに
繋がるのかもしれません。
Posted by 拓 at 12:05│Comments(0)
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